渡邉 朱鷺
第六篇

昌源寺と富士講

地域の宗教的中心として
五十嵐こと 初稿 2026年5月1日

はじめに

本稿は、原宿渡邉家連作の第六篇として、原宿渡邉家が担った地域の宗教的中心としての役割——昌源寺の経営、富士講の伝授、白隠禅師との地縁——を論じる。

元和元年(一六一五)、長男・八郎左衛門が本陣職を弟に譲って分家した最大の理由は、お万の方の意を受けて昌源寺を建立し、その経営に専念することであった。以後、昌源寺は分家・長男系の精神的中心であり、原宿の宗教的中心であり続けた。

本稿では、昌源寺の意味、富士講関連史料群、そして駿河原宿出身の白隠禅師との地縁を論じる。これらは、原宿渡邉家が街道経営・漁業経営の家であるだけでなく、地域の宗教的伝統を担う家でもあったことを示す。

一 昌源寺の意味——徳川家から託された寺

第一篇で論じたように、昌源寺は元和元年(一六一五)にお万の方からの寺地と日蓮の尊影の寄進に基づいて建立された日蓮宗の寺院である。

徳川家康の側室、紀伊・水戸徳川家の母であるお万の方が、自ら寺院創建を勧めて尊影を賜ったという経緯は、昌源寺を徳川家から直接の宗教的負託を受けた寺として位置づける。地方の単なる檀那寺ではない。徳川家とのつながりを背景として、原宿の宗教的中心を担う寺として誕生した。

長男・八郎左衛門は、本陣職を弟に譲ってまで、この寺の建立と経営に専念した。これは、家の格式を捨てたのではなく、家の精神的責務を引き受けた判断であった。世俗の重い職務の格よりも、徳川家から託された宗教的責務の重みを優先した——その判断こそが、家としての精神性の表れである。

以後、昌源寺は分家・長男系の檀那寺として、原宿の日蓮宗信仰の中心であり続けた。寺の経営、檀家の組織化、宗教行事の運営——これらすべてに分家・長男系が深く関わった。

二 寺名の表記——古文書「昌源寺」と現在「昌原寺」

ここで、寺名の表記について整理しておく必要がある。

古文書群および白隠禅師の自著(『壁生草』『策進幼稚物語』『白隠禅師年譜』)では、寺名は一貫して「昌源寺」と記されている。これは、近世における正式な表記である。

一方、現在の寺院側では「昌原寺」と表記されている(日蓮宗静岡県中部宗務所「昌原寺」項目)。この表記の異同がいつから生じたか、また異同の理由は何かについては、現時点では明確な研究はない。

本連作は、寺名の正誤を判定する立場にはない。ただ、史料的には、近世を通じて「昌源寺」と記されてきたことは確かである。本連作では、史料に従って「昌源寺」を用いる。

開基についても、史料間に異同がある。沼津市史は、開基者は渡邉八郎左衛門であり、彼が中心となって寺を造営したと記す(『沼津市史 史料編 近世2』p.263)。一方、現在の寺院側では、お万の方が開基となって寺を創建したとされ、渡邉八郎左衛門は宿泊先の当主として登場するにとどまる。これらの異同を踏まえつつ、本連作では、史料的に確認できる事実——お万の方が原宿に来訪し、日蓮の尊影と寺地を賜り、それに基づいて寺が建立されたこと——を中心に論じている。

三 富士講関連史料群——民間宗教の伝授拠点

原宿渡邉家文書の中で、特に注目される史料群が、富士講関連の巻物・印可状群である。静岡県立中央図書館蔵『駿河国駿東郡原宿渡辺家文書』のカテゴリー「富士講」(第一二五五号〜第一二七一号、約一七点)に集積されている。

富士講は、近世日本において広く展開した民間宗教である。富士山を神聖な山として崇拝し、富士山への登拝を組織化した宗教組織である。江戸を中心に各地に講社が形成され、江戸期を通じて数百万人の信者を持ったとされる。

原宿は、富士山の南東に位置し、富士山参詣の通り道として古くから富士講と深い関わりがあった。原宿渡邉家文書には、富士講の伝授に関わる秘伝書・印可状が、享保期から天保期にかけて多数残されている。

四 享保十八年から天保十一年——巻物群の系譜

富士講関連史料の中で、年代が明確なものを以下に挙げる。

享保十八年(一七三三)「富士御伝」(巻物、第一二五五号付近)——富士山信仰の根本伝書。

寛保三年(一七四三)「明仙元火菩薩御真伝」——富士信仰における重要な秘伝書。明仙(みょうせん)は富士信仰の祖の一人とされる。

明和元年(一七六四)「世治御巻」——富士講における伝授の証として与えられた巻物。

寛政元年(一七八九)「松平定信宛直訴状」(第一二五六号)——富士講の信仰に関わる、幕府老中松平定信宛の直訴状。富士講の社会的位置づけを示す重要な史料。

文化文政期から天保期にかけて、印可状・伝授状が継続的に作成された。文書群は天保十一年(一八四〇)まで残されている。

これら一七点の巻物・印可状群は、原宿渡邉家が単に富士講の信者であっただけでなく、富士講の伝授拠点であったことを示す。富士講の秘伝書を所蔵し、後進への伝授を行うことができる立場にあった。

近世の民間宗教において、伝授拠点となる家は限られていた。秘伝書の所蔵、伝授の権限、信者の組織化——これらを担うことができたのは、地域の中で精神的権威を持つ家のみであった。原宿渡邉家がこれを担えたのは、家としての宗教的伝統と地域における中心性の表れである。

五 寛政元年(一七八九)松平定信宛直訴状

富士講関連史料の中でも特に注目されるのが、寛政元年(一七八九)の松平定信宛直訴状(静岡県立中央図書館蔵第一二五六号)である。

松平定信は、寛政の改革を主導した老中である。その定信に対して、富士講の信仰に関わる事項について直訴が行われた。直訴は、近世日本において幕府の政策に対する民衆の声を届ける手段の一つであり、危険を伴う行為でもあった。

この直訴状が原宿渡邉家文書に残されているということは、原宿渡邉家が富士講の信仰の維持に深く関与していたことを示す。あるいは、直訴状の写しを家として保存することで、富士講の社会的位置づけをめぐる歴史を記録しようとしたとも考えられる。

いずれにせよ、この文書は、原宿渡邉家が単なる地方の有力者ではなく、地域の宗教的・社会的問題に深く関わる家であったことを示している。

六 白隠禅師と原宿——昌源寺の地縁

原宿の宗教的伝統を語る上で、欠かすことができないのが白隠禅師(白隠慧鶴、一六八五〜一七六八)である。

白隠は、駿河国原宿の生まれである。臨済宗中興の祖と呼ばれ、近世日本の禅宗を再興した人物として日本仏教史に大きな位置を占める。「不立文字」「教外別伝」「眼横鼻直」「直指人心」などの禅語を、現代に至るまで広く伝えた人物である。

白隠の自伝『壁生草』『策進幼稚物語』および弟子による『白隠禅師年譜』には、白隠が幼少期に昌源寺で日厳上人の説法を聞き、出家を決意した経緯が記されている。

白隠は十一歳のとき、母に連れられて昌源寺で日厳上人の地獄説法を聞き、強い恐怖と決意を抱いた。この体験が、白隠の出家の直接の契機となった。すなわち、白隠の宗教的人生の出発点は、原宿の昌源寺にあった。

昌源寺は、お万の方の意を受けて元和元年に建立された日蓮宗の寺院である。白隠は臨済宗の禅僧であるが、宗派を超えて、地元の有力寺院として昌源寺の影響を受けた。これは、近世日本における宗教的越境の一つの例でもある。

白隠は、原宿渡邉家の人物ではない。しかし、原宿という同じ地域に生まれ、原宿渡邉家が建立した昌源寺で出家を決意したという地縁は、原宿の宗教的中心としての昌源寺の重みを示している。

七 地域の宗教的中心としての家

本稿で論じてきた事実は、原宿渡邉家が単に街道経営や漁業経営の家であるだけでなく、地域の宗教的中心を担う家であったことを示す。

昌源寺の経営——徳川家から託された日蓮宗寺院の維持。

富士講の伝授拠点——民間宗教の秘伝書の所蔵と伝授権限の保持。

白隠禅師との地縁——日本仏教史を画する禅僧の出発点となった寺の建立家。

これらの宗教的活動は、本陣・問屋・牧士・津元という世俗の活動と並行して、原宿渡邉家の家としての性格を形作った。家の精神的伝統が、これらの宗教的活動を可能にしたと同時に、これらの宗教的活動が家の精神的伝統を支え続けた。

家伝として、源頼朝の弟・阿野全成の子孫であるとされてきたこの家が、地域の宗教的中心を担う家でもあったということは、家伝と整合する。阿野全成自身が、走湯権現(伊豆山権現)の座主として宗教的指導者であった人物である(連作Ⅰ序論)。その子孫を称する家が、近世の原宿において宗教的中心を担っていたという事実は、家伝の継承を支える状況証拠の一つとなる。

次篇は本連作の最終篇である。嘉永四年(一八五一)の大泉寺墓所整備を中心に、家伝の継承の最終的姿を論じ、本連作の結論を示す。

参考文献

・静岡県立中央図書館蔵『駿河国駿東郡原宿渡辺家文書』
  第一二五五号〜第一二七一号 富士講関連史料群
  第一二五六号 寛政元年「松平定信宛直訴状」
・白隠慧鶴『壁生草』『策進幼稚物語』
・東嶺円慈『白隠禅師年譜』
・渡辺八郎「近世に創設された寺院——特に原宿昌源寺について——」『駿河』第二四号、一九七四年
・沼津市史 史料編 近世2(町宿・文化)p.263
・日蓮宗静岡県中部宗務所「昌原寺」項目
・芳澤勝弘『白隠——禅画の世界』中央公論新社、二〇〇五年(参考)

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