渡邉 朱鷺
第三篇

問屋・人馬継立と助郷の経営

助郷帳の連続と幕末の動員
五十嵐こと 初稿 2026年5月1日

はじめに

本稿は、原宿渡邉家連作の第三篇として、本家・次男系(平左衛門系)と分家・長男系(八郎左衛門系)が共に担った問屋・人馬継立と助郷の経営を論じる。

問屋(といや)は、宿駅において人馬の継立を統括する公的な役職である。本陣が宿駅の格式を担う施設であるのに対し、問屋は宿駅の経済的・運営的な中核である。徳川幕府の道中奉行から問屋を命じられた家は、街道の物流と人の往来を支える、宿駅の実質的な責任者であった。

原宿渡邉家は、近世を通じて問屋役を担い続けた稀有な家である。本家・次男系は本陣と問屋を兼ね、分家・長男系も文化年間に問屋役となった。家全体として、原宿の宿駅運営の中核を担った。

一 助郷帳の連続——元禄七年(一六九四)から明治へ

原宿渡邉家文書の中核をなすのが、助郷帳と呼ばれる文書群である。助郷とは、宿駅の人馬では足りない場合に、近隣の村々から人馬を徴発する制度である。助郷を担う村々を「助郷村」と呼び、その負担の割り振りを記したのが助郷帳である。

原宿渡邉家文書では、元禄七年(一六九四)二月の「東海道原町助郷帳」(静岡県立中央図書館蔵第七号)から、明治期に至るまで、助郷帳が連続して残されている。元禄期の助郷帳が地方の宿駅の家に伝来している例は稀であり、原宿渡邉家文書の特異性を示す。

享保十年(一七二五)には、東海道の宿々全体で助郷の再編が行われた。「東海道原宿助郷帳」(第八号)、「東海道沼津宿助郷帳」(第九号)、「東海道吉原宿助郷帳」(第十号)が同時期に作成されており、この再編の様子が文書群から読み取れる。隣接する沼津・吉原の助郷帳まで原宿渡邉家に残されているのは、宿々間の連携の中で文書が交換されていたことを示す。

享保十年十二月の「原宿助郷午年御役勤方書上帳」(第一一号、第一二号)以降、文化・文政・天保・嘉永・安政・文久・元治・慶応の各年代にわたって、助郷の運用記録が残されている。助郷の負担は、近隣村々にとって重荷であり、しばしば紛争の原因となった。

二 助郷係争——文政期の事例

助郷の運用をめぐっては、しばしば係争が発生した。原宿渡邉家文書には、これらの係争の経緯を記した文書が複数残されている。

文政三年(一八二〇)十一月の「増助郷高書上帳控」(第三九号)は、増助郷の負担増を求める動きに対する原宿の対応を記している。文政三年から文政七年にかけての一連の文書群(第四五号〜第五七号)は、助郷の運用と費用負担をめぐる、宿駅と助郷村々の交渉の記録である。

文政十年十二月の「文政五午年ゟ同九戌年迄五ヶ年宿助郷勤人馬立辻仕訳書上帳」(第三二五号)は、五ヶ年にわたる宿駅と助郷の人馬負担の精算記録である。論所地改御手付・青木貢一らの幕府役人によって調査・確定された。助郷の運用が、幕府の道中奉行の管轄下で厳密に管理されていたことが分かる。

三 文化九年・文政七年・文久二年の係争事例

助郷係争の具体的な事例として、いくつかの典型的な文書がある。

文化九年(一八一二)四月の「御尋ニ付奉書上候下書(諸家通行之節難儀ニ付)」(第三五一号)は、諸家通行に伴う助郷の難儀を訴える文書である。問屋・与兵衛らから道中奉行下妻甚太夫宛てに作成された。本陣・問屋家としての渡邉家が、助郷村々の負担を代弁して幕府に訴える立場にあったことが分かる。

文政七年(一八二四)四月の「文政三辰年宿助郷人馬月々遣高書上帳」(第三一六号)以下、文政四年・五年・六年と継続する月々の使用高書上帳は、助郷の運用を月単位で管理する記録である。これだけ細かい単位で記録を残していることが、原宿渡邉家の文書管理の精度を示す。

文久二年(一八六二)十二月の「乍恐以書付奉願上候(御役御免願)」(第三六一号)は、問屋・常次郎らによる役御免願である。幕末期、宿駅の困窮が深刻化する中で、問屋役の継続が困難になっていた状況が窺える。

四 諸大名・公家の通行と人馬継立

人馬継立の記録は、第二篇でも触れた諸家人馬印鑑(第六一〇号〜第八四三号)と並んで、「人馬継立高書上帳」として残されている。原宿渡邉家文書では、享和元年(一八〇一)四月の「御伝奏例歳御賄立辻書上扣帳」(第二七九号)から始まり、慶応期まで連続して残されている。

特に、御公家衆・御三卿の参府と帰京に伴う人馬継立の記録は詳細である。文政五年(一八二二)二月から十月にかけての一連の文書群(第二八七号〜第三〇六号)は、坊城・勘解由小路・広橋・甘露寺・徳大寺・日野・高倉などの公家の参府と帰京の人馬継立を記録している。

これらの記録は、原宿渡邉家が、徳川将軍家と京都朝廷を結ぶ公的往来の中継点を担っていたことを示す。問屋家として、人馬の手配、賃銭の精算、印鑑の確認——これらすべてを担い、幕府の街道制度の運用に直接関わっていた。

五 幕末期——御進発と人馬継立の動員

幕末期、宿駅と問屋家にとって最も大きな試練は、第二次長州征伐に伴う将軍家茂の上洛(慶応元年、一八六五)であった。

慶応元年十二月の文書群——「御進発御中軍並御前後御人数日〆帳」(第九五号)、「御進発御中軍並御前後乗馬数日〆帳」(第九六号)、「御進発御前軍御供御人数取調書上帳」(第九七号)、「御進発御供御役々様御手当願取調書上帳」(第九八号)、「御進発御守衛農兵御人数書上帳」(第九九号)、「御進発兵粮秣其外御入用書上帳」(第一〇〇号)——は、将軍家茂の上洛に動員された宿駅の対応を記している。

これらの文書から読み取れるのは、宿駅と問屋家が幕府の最後の軍事行動の物流を支えた事実である。人馬の動員、兵粮の手配、休泊の準備——すべてが原宿の宿駅から提供された。

慶応二年(一八六六)には、将軍家茂の死去に伴う還御の対応もあった。「再渡御上洛還御之節人馬賃銭金直渡請書」(第一〇一号)など、京都から江戸への帰路の対応を記す文書が残る。問屋家として、戦争と政治の動乱の中で、街道の物流を絶やさず維持し続けた記録である。

六 明治維新後の問屋——制度の変革

明治元年(一八六八)以降、宿駅制度は急速に変革された。明治二年(一八六九)から明治四年(一八七一)にかけて、新政府は宿駅・伝馬所の制度改革を進めた。

明治三年(一八七〇)の「四月分宿方諸入用月々請払帳」(第一二二号)以下、明治期の宿入用記録は、新政府の駅逓御役所の管轄下で、近世とは異なる体制で運用された。

明治四年(一八七一)九月、宿駅制度そのものが廃止された。原宿渡邉家の本陣・問屋としての公的役職は、ここに終わった。元禄七年から続いた助郷帳の継続は、約一七〇年の歴史を経て幕を閉じた。

しかし、家としての活動は終わらなかった。明治期に入ってからも、渡邉家の歴代当主は、原町長、町会議員、郡会議員、原町銀行頭取、原郵便局長などの要職を歴任し、地域の有力者であり続けた。問屋家としての街道経営の経験は、近代化された地方行政の中で、新しい形で継承された。

七 問屋家としての記録の精度

原宿渡邉家文書の宿駅・助郷関係の記録は、その量と精度において他に類を見ない。

助郷帳、宿入用勘定帳、人馬継立高書上帳、諸家人馬印鑑——これらが元禄期から明治期まで約一七〇年にわたって連続して残されているのは、文書管理の伝統が家の中で確立していたことを示す。問屋家として日々の運営を記録するだけでなく、それを世代を超えて保管する意志があった。

この記録の精度は、原宿渡邉家が単なる宿駅の運営者ではなく、街道制度の運用を支える専門的な家であったことを示す。文書管理の能力——識字、組織化、保管——は、家の格と精神性を反映する。

次篇では、原宿渡邉家のもう一つの顔である愛鷹牧の牧士としての活動を論じる。愛鷹牧は、原宿の北に広がる徳川幕府直轄の牧場であり、原宿渡邉家は近世後期にその管理を担う牧士に任命された。本陣・問屋に加えて牧士を兼ねるという複合的な役割が、原宿渡邉家の家としての性格を最もよく示している。

参考文献

・静岡県立中央図書館蔵『駿河国駿東郡原宿渡辺家文書』
  第七号 元禄七年「東海道原町助郷帳」
  第八号〜第十号 享保十年「東海道原宿助郷帳・沼津宿助郷帳・吉原宿助郷帳」
  第三九号 文政三年「増助郷高書上帳控」
  第二七九号 享和元年「御伝奏例歳御賄立辻書上扣帳」
  第二八七号〜第三〇六号 文政五年諸公家通行人馬継立記録
  第三一六号〜第三一九号 文政七年「文政三〜六年宿助郷人馬月々遣高書上帳」
  第三二五号 文政十年「文政五午年ゟ同九戌年迄五ヶ年宿助郷勤人馬立辻仕訳書上帳」
  第三五一号 文化九年「御尋ニ付奉書上候下書」
  第三六一号 文久二年「乍恐以書付奉願上候(御役御免願)」
  第九五号〜第一〇〇号 慶応元年御進発関連文書
  第一二二号 明治三年「四月分宿方諸入用月々請払帳」
・沼津市立駿河図書館編『原宿問屋渡辺八郎左衛門日記』一九七九年
・沼津市史 史料編 近世2(町宿・文化)

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