全成は頼朝と政子の灌頂の師であった
はじめに
阿野全成という人物の実像をめぐって、長らく欠けていたのは、史料による直接の裏付けであった。『吾妻鏡』は全成を「頼朝の弟」「悪禅師」として記録するに留まり、全成が伊豆山権現において何者であったか、頼朝・政子との関係において何者であったかを語らなかった。通説はこの空白の上に「頼朝の挙兵に駆けつけた弟」という像を置いてきた。
しかし、二つの史料がこの空白を埋める。一つは1183年の寄進状に記された花押であり、もう一つは『佛身一躰灌頂鈔』という秘伝書である。この二つは、性格の異なる独立した史料である。前者は古文書学的な物的証拠であり、後者は走湯権現・箱根・三嶋の霊場に伝わった密教の秘伝書である。
この二つを重ね合わせると、一つの事実が浮かび上がる。
頼朝と政子の灌頂の師は、全成であった。
全成は頼朝に駆けつけた弟ではない。頼朝と政子の宗教的な師——密教における最も重い人格的関係において、両者を導いた人物である。鎌倉幕府の創業は、この師弟関係の上に立っていた。
本稿はこの事実を、二つの史料に基づいて論証する。
一 花押が示すこと——全成は走湯権現の座主であった
熱海市公式史料『伊豆山神社古文書写』には、治承七年(寿永二年・1183年)七月二十五日付の寄進状が収録されている。内容は、相模国長墓郷(現在の小田原市永塚付近)を走湯山上常行堂に寄進するもので、寄進の目的は「源家安穏」の祈祷である。文書は「座主」の名前で発給され、花押が記されている。裏書には「阿野法橋御房(全成、源頼朝の異母弟)」と明記される。
明治大学文学部教授・高橋一樹氏は、この花押を分析し、「座主」が阿野全成にあたることを指摘した(高橋一樹「鎌倉幕府の成立と阿野全成――伊豆山旧蔵の全成発給文書をめぐって――」『軍記と語り物』六十号、二〇二四年三月)。
これによって確定するのは、次の事実である。1183年の時点で、阿野全成は走湯権現(伊豆山権現)の座主であった。
座主とは、寺院・霊場の最高責任者を指す職位である。一介の住僧ではない。法会を主宰し、寺領を管理し、僧侶を統括し、対外的にその霊場を代表する者である。1183年に全成が座主であったのなら、その地位への就任は当然それ以前であり、就任前には長期にわたる修行・実績・人脈の蓄積があったはずである。1183年は頼朝挙兵(1180年)からわずか三年であり、新参の僧侶がこの間に座主に就任することは、宗教組織の人事慣行に照らして考えにくい。すなわち全成は、頼朝挙兵以前から走湯権現に基盤を持ち、座主として活動していた人物であった。
『吾妻鏡』にはこの事実が一切記されていない。『吾妻鏡』に登場する伊豆山権現の僧侶は専光房良暹のみであるが、良暹は「住侶」とのみ記され、座主とは呼ばれていない。すなわち『吾妻鏡』は、座主が誰であったかを記録せず、座主の存在そのものを空白にした。
花押は、その空白に入るべき名前が全成であったことを物的に証明する。
二 『佛身一躰灌頂鈔』が示すこと——頼朝と政子には師がいた
走湯権現が伊豆国の一霊場にすぎなかったのなら、全成が座主であったという事実は、地方の宗教者の話として終わる。しかし走湯権現は、伊豆国の一霊場ではなかった。
『佛身一躰灌頂鈔』は、箱根・三嶋・走り湯(伊豆山)の霊場に伝わった、密教と神道が深く混ざり合った秘伝書である。書の中で、箱根・三嶋・走り湯は別個の三つの霊場ではない。三所が一つの信仰圏を構成し、その霊力は相互に流れ込んでいる。
注目すべきは、灌頂(かんじょう)の制度である。
灌頂は必ず師から弟子へ授けられる。書物を読んだだけでは、秘伝の真髄には到達できない仕組みになっている。文書は見取り図に過ぎず、本当に大切なことは師匠から弟子へ、口から耳へと直接伝えられる。すなわち、走湯権現の信仰圏に属する者は、必ず誰かを師としていた。
書には、治承四年(1180年)八月十八日、すなわち頼朝挙兵の翌日の記録に、頼朝と政子の名が現れる。頼朝が一生涯にわたって誓いを犯さない者として定められたこと、そして御台所(北条政子)もまた夫の誓いに従って毎日の勤行を熱心に行ったことが記される。
ここに記される「誓い」「勤行」は、世俗的な信心ではない。『佛身一躰灌頂鈔』は密教の秘伝書であり、そこに記される誓いは、灌頂の儀式によって授けられる秘密の誓いである。すなわち、頼朝と政子は走湯権現を中核とする三所信仰圏の秘密灌頂の系譜に属していた。
そしてこの制度のもとでは、頼朝と政子には師がいたということになる。誓いを授けた師が、勤行の作法を伝えた師が、灌頂を主宰した師が、必ず存在した。これは推測ではなく、書物の制度がそれを要求する。書物が口伝を絶対の条件とし、師から弟子への一対一の伝授を秘伝の条件としている以上、頼朝と政子は誰かを師としていた。
その師は誰か。
三 二つの史料を重ねる——全成は頼朝と政子の灌頂の師であった
ここで、第一節と第二節を重ね合わせる。
第一節が示すのは、全成は走湯権現の座主であったということである。
第二節が示すのは、頼朝と政子は走湯権現の信仰圏に属し、師を持っていたということである。
この二つを重ねれば、結論が導かれる。
頼朝と政子の灌頂の師は、全成であった。
走湯権現の座主とは、その霊場における最高の宗教的権威である。密教の制度において、秘密灌頂は座主の権威のもとでしか授けられない。日常的な指導や勤行の作法を伝える師は、座主の下にいる住侶や別院の住職が担うことがある。しかし、灌頂——とくに最も重い秘密灌頂——を授ける最終的な権威は、その霊場の座主にある。
頼朝と政子が走湯権現の灌頂の系譜に属していたのなら、その灌頂を最終的に保証する師は、座主であった。1180年の走湯権現の座主は全成である。すなわち、頼朝・政子の灌頂の師は、全成であった。
これは抽象的な「信徒と霊場」の関係ではない。師と弟子の関係である。密教における師弟関係は、世俗的な師匠関係をはるかに超える。師は弟子に秘密の誓いを授け、口伝でしか伝わらない奥義を伝え、弟子の魂の救済に責任を負う。弟子は師に絶対の従順を誓い、師の言葉を仏の言葉として受け取る。
挙兵の前夜、頼朝は全成の弟子であった。政子もまた、全成の弟子であった。挙兵の翌日、頼朝・政子の誓いと勤行は、師である全成のもとで秘伝書に記された。挙兵から三年後、師である全成は、座主として「源家安穏」を祈祷する寄進状を発給した。
これらすべての場面において、全成は外にいたのではない。頼朝・政子の灌頂の師として、内にいた。両者を宗教的に包んでいた。これは兄弟関係や政治的同盟関係をはるかに超える、密教における最も重い人格的関係である。
なお、『吾妻鏡』には文陽房覚淵が頼朝の師僧であったとの記載があり、専光房良暹もまた頼朝の師僧とされている。これらの記録と本稿の結論は矛盾しない。覚淵は密厳院の住職であり、走湯権現の内部組織においては座主の下にあった。良暹もまた住侶として座主の下にあった。覚淵や良暹が日常的な指導や勤行の師として頼朝・政子に接していたとしても、その背後には座主=全成の権威があり、灌頂を最終的に保証する師は座主であった。覚淵・良暹と全成の関係——伊豆山権現の三層構造——については、別稿で詳述する。
四 通説の物語が成立しない理由
通説は、阿野全成を次のように描いてきた——平治の乱の後、七歳で醍醐寺に入り、二十一年間を京都で過ごし、1180年に頼朝の挙兵を聞いて寺を抜け出し、東国に駆けつけた弟。挙兵後の全成は頼朝の信頼を得て阿野荘を与えられ、北条時政の娘・阿波局と婚姻したが、1203年に比企氏との抗争の中で誅殺された——と。
この物語は、二つの史料が示す事実と整合しない。
第一に、1180年に駆けつけた人物が、わずか三年後の1183年に走湯権現の座主として寄進状を発給することはありえない。座主就任には長年の活動と実績が必要である。すなわち全成は、1180年以前から走湯権現にいた。
第二に、走湯権現の座主であった全成と、走湯権現の信仰圏に属して灌頂を受けていた頼朝・政子の関係は、「兄弟」「義兄弟」では説明されない。両者は密教の制度において師と弟子の関係にあった。挙兵に駆けつけた弟という像は、この関係を捉えていない。
第三に、「頼朝が弟である全成を取り立てた」という構図そのものが逆である。密教において、流人の身であった頼朝が走湯権現の座主・全成のもとで灌頂を受けたのなら、立場の上下は世俗の血縁順位と逆転する。全成は頼朝にとって、宗教的に上位の存在であった。挙兵後、世俗の権力関係において頼朝が将軍となり全成が御家人となったとしても、宗教的な師弟関係は最後まで反転しない。
通説の物語には、この三つの事実が入る場所がない。物語そのものを書き換える必要がある。
五 書き換えられるべき物語
二つの史料が示す事実から、阿野全成の像は次のように書き換えられる。
全成は1170年代までに醍醐寺を出て東国に来ており、走湯権現に基盤を築いていた。北条時政の娘との婚姻もこの時期に成立し、子をもうけていた(『吾妻鏡』文治元年〔1185年〕十二月七日条において、全成の娘の婿として藤原公佐——後白河法皇の寵臣・藤原成親の子——が登場することからも、全成の東国における活動期間が長かったことが裏付けられる)。
1180年の頼朝挙兵の時点で、全成はすでに走湯権現の座主——あるいは座主に近い地位——にあり、頼朝・政子の灌頂の師として、両者をその信仰圏に導いていた。挙兵の翌日に頼朝・政子が走湯権現の秘伝書に名を残しているのは、両者が師である全成のもとで誓いを立て勤行を行っていたからである。
挙兵から三年後の1183年、師である全成は座主として「源家安穏」を祈祷する寄進状を発給する。頼朝政権が朝廷から制度的に承認される寿永二年十月宣旨の三か月前のことである。鎌倉政権の成立過程において、走湯権現は宗教的基盤として機能しており、その基盤の主であり頼朝・政子の灌頂の師であったのが、全成であった。
全成は1203年、比企氏との抗争の中で誅殺される。しかし全成はその時、単なる僧侶ではなかった。御家人として「阿野上総介」を称し、その妻・阿波局は将軍家の乳母であった。すなわち全成は、宗教的にも政治的にも、幕府の中枢に深く位置する人物として、その死を迎えた。世俗的には御家人であり、宗教的には頼朝・政子の灌頂の師であった人物の死である。
『吾妻鏡』はこの全成像を体系的に消去した。座主としての地位を空白にし、走湯権現の信仰圏の中核としての位置づけを語らず、頼朝・政子との師弟関係を物語らなかった。北条氏のもとで編纂された『吾妻鏡』にとって、源氏将軍家の主君が阿野全成の弟子であったという事実は、北条氏の権力の根拠を根底から揺るがすものであった。北条氏の権力は、源氏将軍家の正統性に依拠して成り立つ。その源氏将軍家の主君が、北条氏が誅殺した一人の僧侶——阿野全成——の弟子であったとは、絶対に書けない。
しかし二つの史料は残った。1183年の花押は伊豆山神社旧蔵の古文書写の裏書に残り、『佛身一躰灌頂鈔』は箱根・三嶋・走り湯の霊場に伝わる秘伝書として残った。北条氏は『吾妻鏡』本文を統制できても、霊場に伝わる物的証拠と秘伝書までは消すことができなかった。
結語
二つの史料は、それぞれ独立に、しかし同じ事実を指し示す。
花押は、全成が走湯権現の座主であったことを示す。
『佛身一躰灌頂鈔』は、頼朝と政子が走湯権現の信仰圏に属し、密教の制度のもとで師を持っていたことを示す。
両者を重ねれば、頼朝・政子の灌頂の師は全成であったという結論が、二つの史料の交点として確定する。
この事実は、阿野全成という人物を理解する上で、すべての出発点となる。鎌倉幕府の成立過程、頼朝・政子の挙兵、北条氏との同盟、そして1203年の全成誅殺——これらすべての出来事は、「全成は頼朝・政子の灌頂の師であった」という事実の上で、改めて読み直されなければならない。
『吾妻鏡』が消去したものは、ここから復元される。